昭和43年05月28日 朝の御理解



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 信心の心得の中に「不浄のある時は先に断りおいて、願いあることを頼めよ」とあります。「不浄のある時は先に断りおいて、願いあることを頼めよ。」「不浄」と言うのは、「不浄穢れ」の「不浄」と字は書いてありますね。けれども、二代金光様は、この「不浄」の事を成就、「お道の不浄は、成就しないことじゃ」と仰っておられますね。ですから、ここんところの不浄は、成らない。ね。「不成」成就しないもの。不成ですね。成ると言う字を書く。
 御教えには不浄というのは、不浄穢れのと書いてある。例えば俗に赤不浄とか黒不浄とか申しますね。そう言う様な意味でも不浄が書いてある。それでもお道で言う不浄と言うの、成就しないこと。氏子が例えば、神様に願いを立て、それが成就しない。成就しないと言う事が、神様がお嫌いなさる。神様が成就する事をもって、願いが成就する事をもって喜びなさるんですね。私どももまた願いを立てたが最後はやはり、成就まで一心にすがり抜かなければいけません。
 ここで言う不浄と言うのは、ですから「不成のある時は先に断りおいて、願いあることを頼めよ」とこう仰るのでございますから、それが私共の心の中に、またあの次の御教えの中に、「心に不浄をかけるな」と仰る。形の上の不浄じゃない形が汚れたとかね。赤不浄なんかって言うのは、そうなんですよね。この不浄なんかと言うのは、家に不幸があるとねお葬式に参拝した、もう玄関とこの前で塩を撒いてからと言った様な事。あれは不浄を払うわけですがね。お道の信心ではそれをまあ不浄とは言わない。
 人間の周りの上に起きてくる、清いもの汚いもの( ? )清い汚いもない、同じだとね。けれどもやはり人間ですから、やはりあの辛い思いしたらやはり清めたい。お手洗いで水で洗うでも、今朝も洗うて来たばっかりだけれども、今もまた清める。そういう心がけはね、そう言う事は但し神様には、おかげに関わると言う事はない。ただ問題は自分の心にですね、「はあこういう心ではおかげは頂けまい」と思う心が不成就。私はやっぱそう思うんですね。
 自分ながらです自分という者を思うてみてです。こういう心がけしかおかげは頂けまいと思う。御教えを頂けば頂くほど自分の思うておること行うておることがです、分かって来るね。そしてあのこういう汚い心では、神様は聞いちゃ下さらないと思う、そういう心が不成就。ですから次には「不浄のある時には先に断りおいて、願いあることを頼めよ」とこう仰る。ほんとに寛大ですね。極まってしまわなければおかげはやらん、とは仰ってはないのですね。
 今私が思うております事は汚い事ね。これはこういう心ではおかげは頂けまいと思うような心が不浄。だからそういう不浄の心がこれにある時にはね、先にそのことを断りおいて、願いある事を頼めよと仰るね。本当に私どもの心の中には、言わばこんなに汚い心があります。こういう汚い心で拝ましてもらいよりますと。どうぞ生身の事でございます、凡夫の事でございますから、どうぞ神様お許し下さいませ」ね。
 そして「どうぞ限りなく美しゅうならして下さいませ」と言うて、いうなら自分の心の汚さをまず願い合う。まずその事を断りおいて、そして先に願いあることを頼めと。この辺は私、あのお道の信心はなんとも言えんものを感じるなるほど、親じゃなぁ子じゃなぁと。親神様じゃなぁとこう思うのです。ここをこうしなければ、そげな事じゃおかげはやらんと仰るのじゃない、そういう時はお叱りを下さっとるかと思うと、もうお叱りを下さっておるその中にもですね。
 ほんとにありありとまあ改心の情と言った様なものがみそめられてくると、もうおかげを下さろうとする働きが始まるのです。ですからここへんのところを御祈念をさしてもらうでも、お取次ぎを頂かして頂くでも、大事にしなきゃならん。商売繁盛もよかろうね、どうぞ健康のおかげを頂きます事もよかろうね。けどもそのあなたの心の中というものをです一遍見てみるね。汚い心が汚い心の中に(思いよるが?)、この不浄と言う字のこの「浄」と言う字ですね。これを分解してみると三水偏に争うと書いてある。
 神様が私はお嫌いになる心というのは、争う心がお嫌いだと思うですね。争うそれがケンカのもとになったり、戦争のもとになったりするんですね。言わば人を責める心なんかはね、責めるところから争いが始まる。「責める」こういう心は、もうほんとに改めて行かなきゃいけませんけれどもね。やはりその私共は人の事は見えるけれども、自分の事は見えない。そこで人を責める前に、まず自分の心を眺めて見よとこう仰る。だから責める心が起こってもやはり責めてはならん。
 そして自分自身の心を責める気になり、自分自身の心を眺めて見るとです、人どころじゃない。まず自分自身の方が、責めなければならない心があることに気が付くね。そういう心を不浄の心だとこう。不浄と言う事は成就しないと言う事になる。四神様はそう二代金光様はそう仰っておられる。お道で言う不浄とはね、成就しまこと。そこでこういう心でお願いしても、その願いは成就しまいと思うような心を改める、と言う事は荒いですけれどもね。さあ一遍に改めると言う事はできませんね。
 けれどそこんところを次に、そういう心があるならばね、まず「先にその事を断りおいて頼め」と仰る。断りおいて。人を責める心がございますとね。人をうらやむ心がございますと。我情我欲の汚い心がいっぱいでございますと。心の汚い心が汚れておるね。そういう心でねお願いをしても、神様は聞いては下さりますまいけれども、切実に願わなければならぬことは、やはり願わなければならんのでございますから、その事は先に断りおいて願え。そこんところをですね。
 繰り返し繰り返しお断りを申し上げるというかね。お詫びを申し上げると言うか。そうして行く内に、不思議に心の中が清まってくるね。そういう心で願えよ。私はここんところの御教えは、こう言う様に頂かなければならんね。時々にはお互いがほんとにあの、自分で自分の心を有り難いと思う事もありますね。そういう時にはどの様な場合でも、心が平生で穏やかであります。言うなら心の中に真心が一杯。人間の心とは汚いものばっかりではない。それとは反面にやはり神様の心そのものも備えておる。
 気の毒な事じゃと。と次に親切の心が起こってくるね。ほんとに真心で思う事がある。私は夕べ昨日、高橋さんそれから妹とあちらの、まあ椛目の元の屋敷の事についてから、地主さんの所に、いろんな判をもらわねばならんことがあったから、やらして頂いた。もうちょうど留守だったですから、遅うに帰って参りました。それで私帰って来るのを待っとったんですけれども、あのそれから私達、いろいろあの話を聞いておりました。私愛子と、妹の話を聞きました。
 もう私はもう昔からですけれども、時には自分からでしたか、私が妹の話をすると、家内が言いよります「ああ、お父さんのまた、妹自慢が始まった」ちゅうてから、もう私あの人の事、誉めにはおられんとですもん実際。これはもう私の実感ですからもう。そりけんち言うてからやっぱ慎みがないとですね。自分の妹の事になると、もう手ばなしに誉めるわけですね。私が。あの人の事を話すと「いやあお父さんのまた、スマちゃん自慢が始まった」ちゅうてから言うんです。
 もうその隣近所なんかいろんな話を隣近所、裏表のそのいろいろ話をすると。「もうほんとあんたちっと馬鹿じゃなかの」ち言うぐらいその美しい事を思い又それを一切行じて行きよるわけですね。もうそれけんもうとにかく自分の周囲には、とにかくその悪か人はいっちょんござらん。もうほんと良か人なんですねあの人の周囲は。私はもうこれにはいつでも驚いてしまうんですね。ほんとにあの「有り難い事だなぁ」とこう思うですね。まあとてもあの人は根性が悪か。
 隣の人がどうの向かいの人がどうの裏の人はもう。「それはあの、あなたが根性が悪かですよ」と言うことと同じことですよ。ほんと言うたらね。もう裏の人も良か人。表の人も良か人皆親切な人。それはあなたが親切だからなんですよ。もう確かに間違いないです。ですから限りなく美しゅうならして頂いたら、周囲が立派な人美しい人であるから、自分がいつも美しい花の中におるようなもんですから、極楽なんですよ。そんな話を聞かせてもろうから、親子で遅から二人で帰るんですね。
 駆け足で帰ってから、帰りの私をもう見えんごとなるまで送ってから、あのちょうど愛子と二人でございましたけん。「もう愛子さんね、あんただん側にこげな素晴らしい手本ば頂いとるけんね、あのほんとにおばちゃんどんのごたるこの生き方をするなら、人間が幸せにならんはずはなかばい」と私は言うた。おばちゃんば手本にしなさい。おばちゃんを手本になさい。もうほんとにもうお父さんな妹じゃばってんから、あの人ば見るといつも拝もうごたる気色のするちゅうてから、こうあの妹にじゃない。
 二番目の娘の愛子に話したことございました。そしてまたお礼せにゃんのだけど、又そう言う事が特に、また有り難いんですね。そのまあそして神様にその事をお礼を申さして頂いておりましたらですね。「美しいものと美しいものの交流」と頂きましたね。麗しいものと麗しいものの交流。昨日から頂きますように私はほんとに「信心とは家庭に不和のなきがもとなり」と仰るあの御教えを改めて昨日、頂いてから、昨日一日その事を思ったんです。こりゃぁもうどげな信心したっちゃ、家庭に不和どもがあったんじゃほんとのおかげが受けられないと言う事。
 本当のおかげ神様が本当に下さろうとしておるおかげ、もう壊れないおかげね。または落とす事のないようなおかげ、あの世にも持って行けれるようなおかげ。この世にも残しておけるようなおかげ。そういうおかげはね、私共がまず家庭の中に、不和があるようなことでは、おかげは受けられないね。そこで私だけではいかん家内だけじゃいかん、家族中の者が挙げて信心さしてもらわにゃいけんね。そして信心とはね、信心とは結局限りなく美しゅうならして頂くことだと。
 その為には改まりもせなん磨きもせなん。限りなく美しゅうならせて頂こう。はあ私のこの汚い心が争う心になって現われておる。この汚い心が人を憎みよるね。妬みよる恨みに思いよる。汚い心が恨みになり妬みになりね、惜しい惜しいと言う様な事になってくるのでございますからね。一つの問題家の中にありましても、その時にはこう争うておりましても、よくよく銘々が考えてみると、「ここんところが、私が少し美しゅうさえなりゃ」と皆で思うのですから、家庭が心から円満にならないはずがないね。
 ですから是はどうでも家族五人おるなら五人の者が、勢を揃えた信心に本気で一つならせて頂かなならん。それにはまずその中心である信心しておる、言うなら皆さんが本気でその信心を頂かなきゃならん。その信心に皆が付いて来なければおられない、と言うほどの信心にならなければならん。子供が言う事聞かんけんぐらいな事じゃ済まされん。言う事聞かん子にでも、言う事聞いて貰えるだけの信心をこちらがさして貰わないけんね。「家庭に不和のなきがもとなり」信心は家庭に不和のなきがもとね。
 おかげはどうでもね。家庭がそうした真から心からの円満な家庭にならして頂いた時にですね。そして昨日私が申しましたように、私共がいわゆる難儀困迫しておる時代に、私共はいかに仲良う家庭の中におかげをこうむっておったかと言う事を思うのですね。ははぁああいう家庭の状態がですね、現在こうしておかげを受けておる受け物になり、元になったんだなぁと言う事を思うです。しかもそのおかげと言うのはね、あの世にも持って行けれる、この世にも残しておけれる。
 自分が極楽の真ん中にあるような、有り難いものを頂かしていけれると言うおかげなんです。ただお願いして病気が治りました。お願いして金銭のお繰り合わせを頂きましたと言った様なもんじゃないね。そこでなら今日の御教えね。ところがなら私どもの心の中には、お願いする事はいっぱいある。けれどもそれが本気でね、成就のおかげを頂かして頂く為にはです私共の心の中に「こういう心じゃ成就しまい」「こういう心じゃ神様は聞いては下さるまい」と思うような心があるとね。
 だからその事を断りおいて先に断りおいて、願いあることを頼めとおっしゃるのですから、そういう心を自分で見極めると言うだけでもおかげなんです。ここが素晴らしいとこなんですね。信心をさせて頂いておると、言うなら人の足下ば見ると言う様な事よりか、まず自分の心の中を見てみる。人を責める前にまず自分を責める。お願いする時にはこういう、こういう汚い心では、おかげにはなるまいと言う様なその心をですね、そういう心を自分で発見する。
 自分で見極めさして頂いて、「神様私の心の中に、こういう汚い心が動いております」とね。「どうぞ生身の事でございます、凡夫の事でございますから、お許し下さい」と言うて断りをおいて、先に願いある事を頼めとこう仰るね。そういう願いがあるたんびんに、自分の心の汚さと言う事を詫びたり断ったりして行くうちにですね、自分ながら生き生きとして来る来れば来るほど、それに本気で取り組まなければならない事にもなるだろう。そして限りなく美しゅうならして頂かにゃと言う事になってくる。
 それが家庭に持ち込まれて来る。それが和の元になるね。「家庭に不和のなきがもと」と言うね、ほんとのそれが和の元になる。穏やかな心にならせて頂いて、同時に願いあることと思わして頂くと言う事が、不成就なことでありね、不成とは成就しないことではなくて、これならば成就すると言う事にもなってくる。ですからほんとに銘々の心の中にね、不成心。言わばまあ不成心なんていう言葉はないでしょうけれどもその、まあ言うなら不成心なんですね、成就しない心なんです。
 神様にお願いをしても成就しまいと言った様な心。そういう心でもならおかげは受けられる。先に断りおいてとこう仰る。断りおいて願いあることを頼めね。それを繰り返し繰り返しですね、お願いがある度、自分の不成心に対してお詫びをさして頂き、お断りを申し上げる様な事になるとですね。何とはなしにその不成心と言うものが清められて行き、改められて行こうじゃないかと言う所なんですね、いわゆる。そして自分自身のそうした不成心というものをですね。
 自分で知れば知るほど、いよいよ人の前にでも、そう猛々しいふうはされません。人どころじゃない。自分自身がだから、自ずと実意にならなければおられない。丁寧にならなければおられない。自分がよかつのごと事思うておるところに、猛々しゅうなるね。言うなら横着な態度が出て来るんです。これではおかげが受けられない。夕べの御理解に例えば、食べ物でもねあの見かけの悪い食べ物があるけれどもね。それが味はとてもいいというものがあるでしょうが。
 「これは見かけは悪かばってん、味はとても良か」と言う事。けれども見かけはもう食べなこたえんごとしておるけれども、食べてみてからひとつも美味しくないのやら、人間でもそう。だからおかげを頂かして頂くならね、やはりその見かけも良か味も良かと言う事にならなきゃいけない。それに精進しなければいけない。例えばあの骨董物の私は壷類を沢山頂いておりますがね。壷類でもそう。これはもう素晴らしい、もう時代もついておる。素晴らしい言わば焼きだ。
 けれどもそれはひびいとります。それは欠けております、と言うたらもうその骨董品の値打ちはないです。どんなに素晴らしくてもね。いわゆる惜しか玉にきずとこう言うでしょうが。もうそれにガタッと値段がもうガタ落ちです。だからお互いのお互い私共の信心もですたいね、いわゆる傷もんであっちゃぁ勿体無いではないか、と言う様な御理解。だからならどこが自分の傷かと言う事を、まず自分が発見するする事によってです、傷もない傷物であってもそれを癒そうという、一生懸命の精進努力がですね。
 そこん所が、神様がおかげを下さる事になってくるのですね。完璧をと言う事はとても出来ないけれども、その完璧を目指してそこん所を教祖は「信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃ」もう傷だらけの私なのですけれども、その傷が一つ一つ癒えて行く治って行く。又治す事に努める。私にはこんな悪い癖がある。こんな悪い欠点がある。私はもう腹はずぶで人もとてもよかつばってんから、これはもう私の癖じゃけんと言うたら、もう一生その人は傷もんで終わらなければならんのですよ。
 そう言うたら。だからそういう傷を持っておる人でもです、ほんとにそういう傷がある事を本気でカバー、このカバーして行こう、それを改めて行こう癒して行こうという、その、取り組まして頂くと言う事が有り難いね。お互い傷物で終わっちゃならん。そこんところをわが心が神に向こうていく。いわゆる完璧を向かって進んで行くと言う事が、お道の信心だとこう仰るね。だからそこのやはり金光大神がね、金光大神と言う言わば最高のひとつの人格とでも申しましょうか。
 または神格と言うても良いでしょう。人間から神格化して行けるだけの信心を、お互いが目指して行く為にもです、いよいよ私共の心からもうとりあえず、自分が願うておることがこういう心では成就しまいという心をまず発見して、その心をです神様に先に断りおいて、願いあることを頼んでいくと言う事を繰り返えされていきよるうちにですね。いわゆるその不成心と言うかね、成就しないと言う様な事の起こってこないようなおかげになって来るだろう。そこに残るものは麗しいものばっかりなのだ。
 その麗しいものと麗しいものの出合いが、家庭でなからなければならない。ひいてはそれが社会でなからなければならない。それがお互いににらみ合うね妬み合う。そういうものが家庭の中にあったり、社会にあったんでは、社会がいつまでも清められるはずはない。この世が極楽になるはずがないね。この世が極楽に感じるおかげを頂く為に、まず自分自身の心からそして、まず家庭からそこに、家庭に不和のなきがもとである、と言った様な尊い御教えを本気で、ひとつの私共の心の上に。
 家庭の上にひとつそれをスローガンにしていかなきゃいけないね。そこで本気でひとつ清まるぞと家族中の者が言い合える。夫婦がもう限りなくもう美しゅうなる事に限っとる。美しゅうなることにもう極まった。「もう限りなく美しゅうなる事以外にはないですよ」とこう家族の者が言い合える。そこによし問題があってもね、「限りなく美しゅうなろう」という焦点を置いておいたら、問題は問題でなくなってくる。勿論解決もすぐするであろうが、そういう心の上に頂けれるおかげであって、本当のおかげ。
 今日「不浄のある時には先に断りおいて、願いあることを頼めよ」と言う事をですね、「不浄(不成)」と言う事を、「これではおかげが受けられまいと言う心」と言うふうに説明いたしましたですね。ですから「そういう心があっちゃおかげはやらん」と仰るのじゃないそれをまず氏子が認めよと。自分が認めよと。そしてそのことを断りおいて、願いあることを頼めよと仰る。まあ「それを極まってしまわなければおかげはやらんぞ」と仰るのではない、と言う様な事でしたね。
   どうぞ。